波里美知会

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外道のたわごと

左マキ

1.テレビ用語を難ず
  テレビ用語には時々腹が立つことがある。最近の代表例が、長島ジャパン、ジイコジャパン等の○○ジャパンという言葉である。べらぼうめ!長島やジイコな んぞに日本が丸ごと鷲づかみされてたまるか。言語は民族の魂であり、文化の基盤である。公共の電波の中でこんないいかげんな言葉を使っていると、その内 に、ブッシュジャパンなどという言葉を使って、その危うさに気づかない不見識な輩も出てくるのではないかと心配になってくる。そこで一句
    ○ジャパン ブッシュジャパンと 言うなかれ

2.プロ野球界のストライキと学風の違い
  プロ野球選手会が、前代未聞のストライキを二日間敢行した。不況宣伝の中で今でも資本家側の言いなりになっている労組も多い現状の中で、労働運動にはな じまないと思っていたプロ野球選手達の一糸乱れぬストは胸のすくような快挙だった。それは従来の労働運動を検証する上で、多くの示唆に富む内容をも持って いるようだ。日本経済が右肩上がりの時に頻発したストは何だったのか?植民地の収奪には目をつぶって、資本家達からおこぼれを貰う為にストをしたイギリス の労働運動と本質的には同じだったのではないか?更にまた、社共両党の勢力争いに翻弄されて労働運動の原則が歪んでいった傾向があったのではないか?それ に対してプロ野球選手会は、イデオロギーの桎梏と政党の勢力争いから解放され、生活に根ざしてストを敢行していたように思われる。だからこそあれだけの国 民的支持が集まったのだろう。古田選手会長は労働運動にはズブの素人だったからこそ、ストライキの原則を堅持し続けることが出来たと思われる。
  古田会長の活躍に比べて、高橋副会長が(マスコミ報道で見る限り)ひどく見劣りしていた。彼が若い上に巨人に所属していることにもよるのだろうが、それ だけが見劣りの原因でもあるまい。出身大学のスクールカラーの違いが影響していたように思われてならない。昭和8年の滝川事件の折りに、弾圧されたリベラ ルな京大教授団及び学生達の多くが立命館に移った。以来立命館は軍国主義の中でもリベラルな学風を守り、昭和35年の安保闘争の時には京都府学連の中核と なって大部隊を東京へ送り込んできた。体育会の学生ではあっても、古田はそうした伝統としての学風を肌身に感じていたのであろう。それに対して慶応は、 明治維新の時の上野での戦闘の折りに、大村益次郎達が放った砲弾が校舎の上空を飛んで行ったその下で、福沢諭吉の講義を聴いていた。安保闘争の時にも大学 としての組織的な参加には特筆すべきものは無かった。そうした政治嫌いの学風が、体育会の学生ということとも相俟って、無意識の内に高橋の身に付いてい た、 と考えられる。二人の基本的な能力の違いを云々するつもりはない。善し悪しとは無関係に、そして本人が無自覚の内に、学風という得体の知れないものに染 まってしまうことが起こり得る、ということの面白さを言いたかったに過ぎない。そして、統一された学風のようなものが存在しなかった当時の信州大学を、今 になって少し寂しく思うばかりである。

3.経済構造改革
  今ではあまり聞かなくなったが、小泉首相が派手に登場した時にはしきりに「経済構造改革」という言葉を口にしていた。変な話だと思った。
  市場原理、グローバルスタンダード(実態はアメリカンスタンダード)などのまことしやかな言葉を使って、アメリカは経済的な世界制覇の完成を急いでい る。その必然的な結果として、弱肉強食の残酷な様相が世界中の至る所に露わになりつつある。貧困とテロ、戦争と飢餓、国内的には新規学卒者の就職難、働き 盛りのリストラの恐怖、定年退職者の先行きの不安などなど…。にもかかわらずアメリカは、完全な一人勝ちへ向かって突き進む。日本はそのアメリカから少し でも多くのおこぼれをと願って、後塵を浴びながらアメリカの後を追っている。これが日本経済の現象的な「構造」である。小泉氏はこの「構造」を改革する気 など毛頭無いのに「経済構造改革」を声高に叫んでいた。変な話だ。
  ところで、経済は実体(物)経済とマネー経済に分かれる。実体経済とは、物の売買やサービスなどに於いて通貨がやりとりされる経済活動である。つまり、 我々の常識的な(健全な)感覚の中でお金が動く経済活動のことである。これに対してマネー経済とは、お金がお金を生む(利息を稼ぐ)経済活動である。株式 相場、債券相場、為替相場などに投資し、お金儲けの世界の中だけで通貨が流動する経済活動である。いわばバクチ経済とも言えよう。実体経済の活動をスムー ズならしめる為の公器としての通貨が、マネー経済の中だけで流動していると、実体経済を大きく圧迫して不況の原因になる危険性が高い。我々が年利 0,02%を求めて預金したお金が、巡り巡ってマネー経済の中に閉じこめられている可能性が高い。誰だ、大金を預金したり、株式や債券の相場に手を出して いる奴は?
  世界中の通貨をドルに換算して、世界中のお金を実体経済とマネー経済とに振り分けたらどんな割合になるか?「エンデの遺言」、「経済ニュースが面白いほ ど分かる本」、「マネーの正体」などの書物には恐ろしいことが書かれている。1980年代には、世界中の通貨の95%が実態経済の世界の中に出回ってい て、マネー経済(バクチ)の中では5%しか使われいなかったという。所が2000年にはこれが逆転して、実態経済が5%、マネー経済が95%になっている らしい。
さあ、えらいことだ!自由競争、輸入自由化、貿易摩擦、リストラによる合理化などと大騒ぎしても、僅か5%のお金を世界中で奪い合っていたのでは83億の 人民が豊かになるはずがない。日本の景気回復だって同じことだ。しかも、アメリカは膨大な貿易赤字と財政赤字を抱えたままで、マネー経済に大きく依拠して 世界経済を制覇しようとしている。これがアメリの原則的な経済構造である。貿易と財政の膨大な赤字はこの構造を極めて脆弱なものにしていると思われる。現 在のアメリカ経済が崩壊したら、その被害は昭和初年のウオール街の株の大暴落をはるかに超えるものとなるだろう。アメリカのマネー経済を中心とした経済構 造に日本が寄りかかっていていいわけがない。小泉氏はそうした日本の姿勢を根本から改める決意を持っていたとは思えない。ましてや、危険なアメリカの経済 構造を改革するよう忠告する勇気があったとはなおさら思えない。にもかかわらず彼は何故「経済構造改革」を声高に唱えたのか、不可解である。
  小泉首相と閣僚達は、今しきりと「小泉改革」を口にする。これが本当に国民の為に行われる改革になるのかどうか、不安と疑念が拭いきれない。
10月1日


外道のたわごと ーテロー(1)
                                 
左マキ  
 
ニューヨークの世界貿易センタービルが崩壊していく姿は衝 撃的だった。たった二機の飛行機の突入だけで、近代建築の粋をあつめたように見える二棟の建物が見る間に灰燼に帰していく様子は、人間の傲慢さを戒めて神 が潰したバベルの塔を想像させた。そこにアメリカの繁栄と文化の底知れぬ脆弱さを見たように思った。
  ブッシュはこのテロを利用して政権の強化と、世界政治の中でのアメリカの一層の優位を企図するだろうと予測した。そのブッシュの思惑通り、テレビ画面で 見る限りでは、あの自爆テロ直後のアメリカ人達のうろたえぶりには目に余るものがあった。テロは武力で一旦は押さえ込めても、その温床の排除(貧富の格差 の是正=アメリカの一人勝ち路線の修正)が伴わなければ根本的な解決にならないことは自明の理だが、アメリカ人達はそんなことは眼中に無いように見えた。 テロとの戦いを叫ぶ民衆の声に消されて、アメリカ民主主義はすっかり影を潜めていた。
  アメリカの狼狽ぶりは拙速に始めたイラク攻撃に代表されるが、その根底には上述の如き自省心の欠如を見ることが出来よう。アメリカの、親イスラエル反パ レスチナの外交姿勢がアラブ諸国の強い反発を招いている。これを改めなければ汎イスラム闘争となってテロは一層拡大深化していくだろう。さらにアメリカが 民主主義国家を標榜するなら、アメリカンスタンダードを止めて世界中のあらゆる分野に於ける多様性をもっと尊重する必要がある。その上で、富の偏在を是正 する努力も欠かせまい。いずれにしても今こそアメリカは冷静に自らを省みなければ、世界と自国を更なる混乱に陥れることになろう。
  アメリカの特徴はarrogantなところにある、とよく言われる。建国200年余という新興国であってみれば、やっと生意気盛りの年齢になりつつある という事情も分からなくはない。だが、人も国家もただ前へ前へと猪突猛進ばかりしていたのでは健全な発展は望めない。時には立ち止まって深く内省してみる ことが必要なのだが、今のアメリカはこれが苦手のようだ。人類の欲望充足の結果が招いた環境破壊を考えれば、今のアメリカ型の発展は、これを丸ごと是認す るわけにはいかない。我々は(先進国は特に)人類発展の質の大転換を真剣に模索しなければならない局面に立たされている。アメリカが世界のリーダーであり 続けたいなら時代の先取りが不可欠なのだが、どうやら欲望の充足を発展と考える旧態依然たる価値観に捕らわれ続けているようだ。アメリカには今こそ内省と 自制が最も求められるのだが、ここの市民達は伝統的(そんなものが有れば、だが)に内省や自制よりも傲然と聳える勝利を尊ぶ傾向が強いように思われる。弱 者である原住民達を屈服させて建国してきた歴史が影響しているのであろうか?弱者からは学ぶことなど何も無い、とでも考えているのだろうか?

2004年10月5日


外道のたわごと ーテロー(2)

  「テロには屈しない、テロとは断固として戦う」という単純なブッシュの演説を熱狂的に受け入れる市民達をテレビで見ていて、そこに浅薄な市民感情を見た 気がてやりきれなかった。第二次大戦以後、ドイツ、日本、朝鮮、ベトナムなどで無辜の民数百万人を米軍が殺戮したことへの自己批判など微塵も無かった。そ れらの数に比べれば、(不謹慎な言葉で恐縮だが)僅か3,4千人の犠牲で世界中を引っかき回すような狂態は何としたことだ?内省や自制の欠如、及び arrogantな国民性のなさしむるところ、としか言いようが無い。第一、アルカイダやイスラム過激派達が、強力な軍事力を有するアメリカにとって、 「断固として戦う」ほどの相手になり得る戦力を持っているはずがない。自らを謙虚に省みる姿勢の欠如がこうした過ちを犯す結果を招いたのだろう。「イラク の戦後統治は、日本の戦後統治をお手本とする」などという馬鹿げた発言が政権の内部から飛び出したり、アメリカの国家テロとの批判も出かねない一国行動主 義もこうした国民性と無縁ではあるまい。
  「臭いにおいは元から断たなければ駄目」と言っていたテレビコマーシャルが有った。テロ対策もその温床を取り除くことを優先させなければ、根本的な問題 解決にはならない。 1911年6月15日に作られた石川啄木の「ココアのひと匙」という詩がある。この詩を紹介して、この冗長な駄文を終わることにしよ う。無原則的に対米従属を強めつつある某国の指導者にも、今から93年も前にこんな詩を作った26歳の青年がいたことを知って欲しいものである。

ココアのひと匙

われは知る、テロリストの
かなしき心をー
言葉とおこなひとを分かちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心をー
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。
10月5日

外道のたわごと ー愛国心ー
左マキ

  来年度の前半には憲法と教育基本法の改訂機運が本格化しそうだ。自民・公明の両党及び民主党の一部の議員達は、憲法九条を改定して「普通の国」になった 日本を国内外に誇示したいようだ。「普通の国」に転向するためには憲法の改定だけでは不十分で、それを支える国民の養成が不可欠である。現憲法の担い手を 養成してきた現教育基本法が、憲法改定と同時並行で改訂の政治日程に上がって来たことは必然の動きであろう。憲法や教育基本法の改定の是非については、ス ペースの関係もあるので、ここでは触れない。だが、我々国民レベルでの議論がほとんど行われていず、政治家達の議論もどこか不真面目に見えることが心配で ある。そこで、憲法と教育基本法の両方に関係する愛国心について愚考してみたい。
  今年6月17日の朝日新聞に、自民・公明両党による教育基本法改定検討会の中間報告に関する記事が載った。この内、愛国心を巡る表現に関しては20数回 に及ぶ会合でも両党の折り合いがつかず、自民党案の「郷土と国を愛し」と公明党案の「郷土と国を大切にし」を併記して、中間報告での決着は先送りされたよ うだ。自民党案と公明党案とではどれほどの違いがあるのだ。こんなことで20数回も会合していたのだろうか?政治家なら他に解決すべき課題が山積している はずだが、暇な奴らと言うか、極楽とんぼとでも言うか…。今後の国の在り方に関わる重大事なのだから、もっと慎重に真面目に論議してもらいたいものだ。
  そもそも、愛国心は個人の「愛」の問題である。個人の心の中の自由に属する問題である。法律で決めたり、政治や行政が国民に強制するには不向きである。 法改正をし、文科省の役人が懲戒権をちらつかせて教師を指導し、嫌がる生徒達に強引に愛国心を押しつけても、またぞろ戦前戦中のような偽物の愛国心を生む だけであろう。
  国民に対して(特に学校教育の場で)あれほど強烈に押しつけられた戦前戦中の愛国心が、結局は偽物としてしか機能しなかった証拠は、少し本気で探せば幾 らでも探せようが、ここでは一例だけを上げておく。ルース・ベネディクトの名著「菊と刀」の中に興味深い記述がある。第二次大戦中に連合軍の捕虜となった 日本兵は、連合軍の情報将校から尋問を受けると兵卒も将校も自主的に日本軍の機密情報を漏らした。尋問した連合軍の将校らは、その話を日本兵の意図的な偽 情報と考えて、最初の内はそれを信用しなかった。ところがそれが真実であることが多いことに気づいて、「あれほど果敢に戦った日本兵が、どうしてこう易々 と日本軍の軍事機密をバラしてしまうのか」と言って頭を抱えた。立花隆も「日本共産党の研究」の中でこれと同様の事実を述べている。愚考するに、自律的な 節義や信念に乏しい日本人に対して、国家権力から強制された愛国心が節義や信念の自立性を一層弱体化させたために起こったエピソ−ドであろう。いずれにし ても、愛国心は個人個人の心の中の「愛」の問題である。如何なる権力と雖も個人の心の中にまでは踏み込めない。強引に踏み込めば踏み込んだ側が、いつかど こかで必ず手痛いしっぺ返しを受けるであろう。
  国を愛したい気持ちは誰もが持つ自然な感情の発露だ。太平洋戦争を過ちと認識していたと思われる中村勇兵長も手記に「私はかぎりなく祖国を愛する けれ ど  愛すべき祖国を私はもたない 深淵をのぞいた魂にとっては…」と記している(「きけわだつみのこえ」所載)。寺山修司も、愛する国を持てないもどか しさを短歌で
マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
と歌っている。愛国心は希望や誇りが持てる国であってこそ、本物が生まれ育つ。いま政治や行政が行うべきことは、法律を作り行政が個人の心に踏み込んで偽物の愛国心を強制することではない。老人も子供も安心して暮らせる国造りこそが急務のはずだ。
10月8日

                          
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