波里美知会

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波里美知会という会名の由来について
 信州大学ワンダーフォーゲル部員の卒業生達で組織する会を、「波里美知会」という。1967年1月1日に、長野市内の随行坊でワンダーフォーゲル部卒業生総会が持たれて、波里美知会という会名が正式に決定した。以来2002年の1月1日で35年になる。会名の発案者は藤巻であり、中野英明氏を始め10名近くの人々から同意を得た上で卒業生会結成準備会の賛同も得て、これを準備会から総会に提案して可決したものである。

 波里美知という言葉は万葉集巻14の東歌(歌番号3399)から取ったものである。一般読者向けには「信濃道(しなのぢ)は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましなむ履(くつ)着(は)けわが背(せ)」(岩波版・日本古典文学大系)よりと表記する例が多いようだが、本来の万葉仮名では
信濃遭者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓 安息布麻之奈牟 久都波気和我世 (同上)と表記する。
 なお万葉仮名表記の四句の末尾は「奈牟」を「牟奈」と表記している例もある。 2000年の合宿に本間氏がハガキを寄せて知らせてくれたものは「牟奈」表記に依拠したものである。「奈牟」表記なら四句の現代語訳は「足を踏みなさるでしょう(だから)」となるのに対して、「牟奈」表記だと「足を踏みなさいますな」という現代語訳になる。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているというものではない。おそらく伝本の違いに起因する差異であろう。ここでは「奈牟」表記に依拠して、通釈をしてみる。
 信濃路は最近切り開いたばかりの道ですよ。切り株にきっと足をお踏みになるでしょう。(だから)靴をお履きなさい、我が夫よ。というような意味になろう。

 蛇足ながら「墾道」と「波里美知」の関係について考えてみたい。
 日本にはまだ文字が無かった時代でも言葉は存在していた。開通した道のことを「はりみち」と言い習わしていたのであろう。その後中国から渡ってきた漢字の発音を真似て音読みを利用し、日本言葉の「はりみち」を漢字で「波里美知」と表記するようになったと思われる。漢字を表音文字として利用した、いわば当て字の一種である。
 そして(おそらく)時代が少し下ると、今度は漢字本来の機能である表意文字としての働きをも利用するようになったのであろう。「墾道」という単語は大漢和辞典にも載っていないので、単語としては中国にも存在しなかったと思われる。外国文字である「墾」と「道」をドッキングさせた日本人の造語なのであろう。耕す、切り開くといった意味の言葉を中国では「コン」と発音して「墾」と表記し、道路を意味する言葉を「ドゥ」と発音して「道」と表記した。ところが日本では、切り開いた道を意味する「はりみち」という言葉はあったが、表記する文字が無かった。そこで、中国語である「墾」を中国語として発音(音読み)するのではなく、日本言葉(訓読み)で「はり」と読んでしまった。一種の当て読みとでも言うべき仕業である。「道」を「ドゥ」ではなく「みち」と訓読みしてしまったこともこれと同じ仕業である。こうして「墾」と「道」を結合させて「墾道」と造語し、「はりみち」と読む日本言葉が作られた。以後「墾道(はりみち)」が、切り開いた道を意味する日本語として定着するようになったと思われる。
 「波里美知」も「墾道」もその意味する内容と発音は全く同じだが、前者は古い表記方法であり後者は新しい表記方法と考えることが適当であろう。

 蛇足ついでに今一つ、推測に基づく知ったかぶりを許されたい。「御篶刈る」と「墾道」との関係についての思いつきである。
 「御篶刈る」は周知のように信濃にかかる枕詞である。枕詞は、現代語訳する時には普通は訳の中に入れないで無視するが、後に続く言葉と密接な関係を持っている場合も多い。「御篶刈る」もそうした枕詞の一つであるようだ。「御」は美称であろう。「篶」は、小竹や篠や笹の類いである。従って「御篶刈る」は、
「竹類を刈る」という意味になる。万葉時代の信濃の国は、まだ十分には開拓されておらず、竹類を盛んに刈り取って道を作り、田畑を開墾していたのだろう。あるいは、「篶」に美称の「御」を冠したことを考えれば、竹類を何かの製品にして朝廷に献上していたのかも知れない。いずれにしても、竹類伐採の重労働を表現して、「みすずかる」という言葉はなんという美しい響きであることか! 信濃では竹類を刈り取って墾道としていたのである。

                                 2001年10月30日
                                      藤巻光夫
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